新鮮朝市
「身土不二」という言葉がある。
明治陸軍の3奇人の一人といわれる石塚左玄(1850〜1905)が、日本で最初に食事療法を唱え、明治三十年代には「身土不二」運動の提唱し続けた人物でる。人の体と土、つまり住む環境は密接な関係にあり、健康のためには、土地の旬のものを食べるのが良いと主張する。
早朝起き出して、秋穂の魚市場に買い出しに出かける。生きている瀬戸内の魚を安く手に入れる。名田島の朝市で野菜を、時には道の駅「みとう」や「にほ」「だいどう」まで出かけて新鮮果物を買う。
我が家の裏の流通センターでは、韓国、中国から仙崎に荷揚げされた野菜を刻んでパックにし、毎朝全国に配送され行くが、何といっても地産のものが、新鮮で美味しい。
朝田川流域の農家に朝市を開こうと呼びかけているが今ひとつ反応が少ない。
店は県道沿いの朝田バス停の「相撲茶屋・大地」のテント店と、流通センター入口・ローソン横の「ふるさと村」の一角で販売してもらっている。始まったばかりなので、木製品のカタログ受注で対応している。
流域の人は是非百円朝市の品物を少しでも出してください。多少のお小遣いも手にし、生産者や販売者と旅行などの親睦会も開きたいと楽しみにしている。
柿が熟すと天は益々高く、本格的な秋を迎える。
柿はそれぞれの土地で改良された特有な品種がみられる。有名品種としては富有、次郎、蜂屋、平種無などがあり、この付近では暖地であるので甘柿の富有種がたわわに実る。
高校時代の友人でである作間重彦君がわざわざ美東町・絵堂から渋柿をドライアイスで渋抜きしたものを持参してくれた。彼は美東町の議員を務めていたが今回の選挙には立候補せずに地域のために尽くし忙しい毎日を送っている。農学を専攻していて植物のことについては誠に詳しい。
柿の渋は水溶性タンニンが舌に触れるためで「渋抜き」とは、これを不溶性にすることだという。そこで渋抜きの方法を紹介しよう。
@湯抜き法=古来より一般的に多く行われて来た方法で、温度30℃前後の湯に侵す。温度が高いと「煮柿」になるので注意が必要。
A塩抜き法=水1、8gに食塩0、1gの食塩水に柿を漬けて密封する。この方法は時間がかかり、柿がうれすぎていないことが肝心。
Bエチルアルコール抜き法=ビニール袋に渋柿を入れ果実10kgに焼酎百_gを噴射して密閉する。一週間程度で抜ける。
Cドライアイス抜き法=ビニール袋にドライアイスを入れて空気を抜く。その他石灰乳や草抜き法、樹上脱渋法もあるようである。
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SSEAYPの30年
青年国際交流事業として大きな役割を果たしている「東南アジア青年の船」は、昭和49年田中角栄総理とアセアン六カ国の共同声明で始まり、今年30回を迎え、7千名の参加青年が活躍している。
今年はアセアン交流年であることから、内閣府政策統括官から記念のフォーラムとレセプションに招待された。朝7時発の「のぞみ」に乗って東京駅に11時半に到着。昼食を取って、会場のホテル・ニューオータニに入る。
二時からの会議には、小野清子大臣、アセアン諸国の代表や事後活動組織代表の挨拶の後、「東南アジアと日本の将来について」白石隆(京都大)や参加青年による船内ディスカッションの成果が英語で発表された。レセプションでは、参加青年550名(12カ国)に福田官房長官や秋篠宮両殿下が最後までお付き合い頂いた。ご承知の通り紀子妃殿下はこの事業の参加者。まだ学習院大学の明るい学生で、オリンピックセンターでの出発式を見送ったが、帰国後の騒動は大変なもので、最近は「接見」という堅苦しいものとなっている。
幸い当時の参加青年シンガポールの
Wilisam Cheong 君やブルネイの Jailani Ibrahim 君にも再会できた.
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公民館の50年
「小金井市公民館創立50周年記念シンポジュウム」が開かれ、シンポジストの一人として上京した。基調講演には中央大学教授の島田修一さんが「公民館の50年の歩み」を振り返った。朝岡幸彦さん(東京農工大学助教授)鈴木豊さん(最初の公民館員)秦さやかさん(小金井市主婦)福島愛子さん(市社会教育委員)に私(元小金井市公民館長)。私は山口市の公民館活動と比較しながら,大都市の公民館が、今後どのような方向に進めばよいのか、大学との連携、外国との交流、地域通貨の可能性やNPO団体との連携について触れた。山口市の公民館は昭和22年平川公民館が青年団の手で建設され,次いで二島地区教育振興会により二島中学校内に開設され、大内公民館が役場に設置された。続いて昭和24年に旧青年学校校舎を活用して大歳公民館が設置された。小金井市の公民館より四年早い。
戦後まもなく「寺中構想」が提唱され、地域振興と文化の砦として焼原の火のように全国に拡がっていった。しかし、大都市では公民館は農村の施設ということで建設されなかった。三十年前「新しい公民館像をめざして」都市公民館の在り方を提言し東京にも公民館が続々誕生することになった。公民館が定着するのに五十年の歳月が必要なのだと感慨をもって帰途についた。
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今は山中
「今は山中、今は浜、今は鉄橋渡るぞと、思う間もなくトンネルの闇を通って広野原」とルンルン気分で東京駅22時の夜行寝台列車「出雲」に乗り込んだ。朝方外を見ると関が原をコトンコトンとレールの音を響かせて進んでいる。
昨夜は息子や甥、妹達と四谷の居酒屋で、貰った講師料や旅費を全部叩いて飲み、東京駅で別れた。近くの新宿,高田馬場、中野、神楽坂は私の青春の自由大学で良く飲み良く唄った。そうだあの頃は「歌声酒場」というものもあって、今テレビに出ているあの髭の爺さん「北篠何とか」さんのドラ声も懐かしいね。などと、夜汽車に乗って振り返るのだが、そこには風が吹いているだけ。まだ完全に酔っていまっすね。米原から北国街道経由長浜に出て秀吉の城も見て、琵琶湖の周航歌」でも味わってと考えていたが、また眠ってしまった。
「HEYANEKOのホームページ」というサイトに「田舎大国日本」の中国地方の特選田舎に」「廃村阿仙原を行く」
(http://www5.ocn.ne.jp/~shimoxx/index.html のhttp://www5.ocn.ne.jp/~shimoxx/inaka/chugoku.htm#asenbara)
の記事を見つけた。書き出しが気に入った。「日本人は古くから、さびれて行くもの、滅び行くものになんとも言えない愛着を感じてきましたが、私も山奥の生まれに、廃村に出会うとたまらない思いが湧きあがってきます」とあり。紀行文が掲載されていた。
「親父の代から山守で、谷の寒さがこたえます。山を捨てたら楽だけど、山の緑が恋しくて、つつじの花咲く春が来りぁ、牛も山に入るだろう。おれがやらなきゃ誰がやる。山はみんなの宝物」。朝田川の夕焼けの土手にギターやドラム、」ハーモニカの音楽が静かに流れる。第6回朝田川シンポジュームの「ホタルの里祭」が6月8日午後6時から開かれ、そのオープニングに演奏された。藤本さんには「山頭火」や「中原中也」の歌も一時間余に亘って演奏してモライ40名程の友人が田圃の中での演奏に聴き入った。その後ホタルの乱舞を鑑賞したり、バーベキューを深夜まで楽しんだ。
元山口大学教育学部教授で「田んぼの学校・山口」の佐藤登校長の熱意にほだされて、「イートウリーの森動物病院」院長藤本信一さんを訪問しているうちに「田んぼの学校の歌」が作られた。昨年10月には油谷町で開かれた「全国田んぼの学校フォーラム」のテーマ曲として演奏された。作詞は防府市で元牛を生産している山本喜行さん。作曲と歌は「信天翁(あほうどり)」の名で担当している。CDに作成されたので、一枚千円で販売し売上金の一部は農山村再生の支援に充てられる。ご希望の方はEメール kojima3@alpha.ocn.ne.jp へどうぞ。
汽笛一声新橋を
はやわが汽車ははなれたり
愛宕の山に消え残る
月を旅路の友として
新橋・汐留から横浜まで汽車が走りだすと文明開化の先駆けとして驚喜した。小郡駅開設が明治33年(1900)であるから百年余になる。その小郡駅から新幹線「ひかり」に乗って上京した。
10月1日からは「新山口駅」と名称変更となり小郡の名は消える。
「のぞみ」が6本止まり、東京まで四時間半で到着し、47分短縮される。さらに品川駅が開設され、一層東京が我が家に近くなる。
帰郷する時にはまだ工事中であった汐留駅のヤードに20階建ての超高層ビルが建ち並び、天国に一層近くなっている。
レセプション会場であるANA(全日空)ホテルの六本木ヒルズ付近は長府毛利藩の下屋敷であったがその面影はない。
内閣府が新世紀を契機に始めた「21世紀ルネッサンス青年リーダー招聘事業」の会議は既に始まっていた。「東南アジア青年の船」の既参加青年が再度日本を訪れ16日間の日本研修をする。私が「東南アジア青年の船」のナショナル・リーダーとして参加したのは18年前のことであった。その参加青年は自国の国会議員や行政長官として活躍している者もいて心強い。