その1
昨年7月の大雨で阿仙原林道が4ヶ所崩れ、水が砂利敷きを洗って通れなくなった。早速大歳出張所に相談を持ちかけ、市土木課の尽力で災害復旧して貰った。補正予算で災害復旧費は約500万円、このほど湯田の「前田組」の工事も完了して17日の完工検査を待つまでになっている。
阿仙原は江戸時代、農家が8軒ほど点在する秘境であった。秋葉山を巡って法満寺に出る路が描かれている(地下上申絵図)今は雑木林の中に僅かにその痕跡を残すのみである。
子供の頃、現在の阿仙原林道に沿ってリヤカーや大八車が通れる程の山道があった。戦後昭和22年に国の失業対策事業として延長1,500bが整備された。立岩口の岩盤をダイナマイトで砕く響きを学校帰りに聞いている。当時「ニコヨン」といって一日254円の失業手当で大学生が学費稼ぎに汗して働いている姿を覚えている。馬車が通れる程の谷山作業路が完成し、自転車通学を可能にした。
親父が念願した林道建設は、阿仙原の部分林の果実を売って建設するものであった。昭和23年立岩までであったものが旧我が家敷前まで延長され(延長2070b)昭和37年に市道に編入され阿仙原林道の原型が完成した。(2月5日)

現在の阿仙原林道

つきあたり
その2
阿仙原林道の出発点は、馬庭奥の大字朝田斧磨きの水飲み場から旧小嶋屋敷の前の車返し・阿仙原下2612の1番地までの総延長1414bの路線である。
昭和55・56年にいよいよ林道整備が、本格的に始まった。それまでに、昭和42年の災害で三箇所崩れ、500万円で補修され、阿仙原入口の木橋はコンクリート製の永久橋(93万円)に取り替えられていたが、どうしてもトラックの入れる林道が必要でった。父・久男が当時大歳の林野委員長をしていたので、書類が多少残されている。福員3、0b54年度2,200万円、55年度500万円であった。その経済的効果は絶大で林業農家に恩恵をもたらした。
57年に大きな災害が起き、家の瓦は吹き飛び、朝田川は氾濫した。三ヶ所の復旧工事が行われたが地元負担金を求められ、180万円の工事で5万円ほど大歳森林組合に東京から送金した覚えがある。この台風はリンゴ台風と言われ、宇部に上陸して能登半島を横切って青森のリンゴ畑を絶滅した。その翌日金沢に居て、台風一過の能登半島を車で案内して貰った。能登の松並木や美林が全滅している様子を見ているので妙に印象に残っている。(2月12日)
阿仙原の樹木
父母の1O回忌で帰郷した妹達に「阿仙原で思い出す木の名前を挙げてくれ」と書き出して貰った。
ビワ、ブドウ、スモモ、グミ、ニッケ、木イチゴ、マルメラ(八朔)、ミカン、ダイダイ、山モモ、ユズ、ナシ、柿、栗、椎の実、ザクロ、竹、杉、檜、松、榊、桐、椿、山茶花、モミジ、紫陽花、穂の木、薔薇、ボケ、等が数えられ、食べられる果実が多かった。
『魏志倭人伝』という中国の西晋王朝(3世紀・日本では弥生時代)の書物で、「東夷伝・倭人」の巻に日本の植物名が中華語で書かれている。有岡利幸氏が『松と日本人』の中で解説されているものを紹介するうと、クズ、タブノキ、トチ、コナラ、ボケ、クヌギ、スギ、カヤノキ、カシ、ヤマグワ、カガツガエ、オカツラ、カエデ等である。
我が国で本格的に編纂された『風土記』(和銅6年(713)に各国司に編纂を命じた。)で現存するのは「常陸」「播磨」「出雲」「豊後」「肥前」の5編であるが、『出雲国風土記』は30年後の天平5年に完成した。「おおよそもろもろあるところの山野にあるところの草木は、ところ、ほいずら、えみくさ、からすおうぎ、いおすぎ、うど、くずの根、わらび、藤、杏、なるはじかみ楡、赤桐、青桐、椎、椿、松、柏である。」と、食べられる植物や松などの樹木を挙げている。