浄楽寺探し
防長社寺由来第三巻(昭和58年山口文書館)によれば、朝田村に浄楽寺というお寺が記録されている。どの辺りのあったかも不明であるが、少し記録を探してみようと思い立った。
寺社由来の「覚」には「当寺往昔大内以前より古跡に御座候処ニ、中比絶破仕居申候を天和年中に法名宥温と申僧御願申上ケ浄楽寺と申寺号に相改申候、右宥温元禄拾丑五月朔病死仕、私迄二代に成申候事。本尊。弥陀但、作仏ニては無御座候事。縁起棟札宝物の類無御座候事。寺内其外ニ抱の堂塔無座候事。本寺美祢郡真名村真宗法栄寺ニて御座候事。喚鐘。但、山陽路周防吉敷郡朝田村法性山喚鐘、宝永弐年(1705)二月七日と御座候。当寺本堂五間二三半間半。但、茅葺ニて御座候。寺敷き壱反七畝二拾五歩御座候事。右当寺由来如此ニ御座候、以上。宝暦元酉(1741)吉敷郡朝田村真宗法性山、九月廿七日 浄楽寺(印井上武兵衛殿)と、あるのみである。
そこで、法栄寺住職河野正真氏にこの寺の過去帳を探していただいたところ、確かに元禄の記述に、「吉敷郡朝田宥温堤□五月朔日」と記されている。また、山口市史には、「真宗本寺は美祢郡真名村真徳来寺寺伝に、当寺は慶長年中造立云々とあり、天保年間洪水のため堂を大破し、寺宝等を流出した。」とある。(2002年11月7日)
流転の梵鐘
朝田川に沿って「五の宮神社跡」がある。この神社の鐘は今、鎌倉五山の一つ、淨智寺の庫裏に眠っている。
郷社・朝田神社の創立は不祥だが、明応16年(1497)、大内義興が戦勝祈願の五社詣でをしたことが記されている。日露戦争後「神社統合」によって大歳村の七社は朝田神社として統合された。江戸期を通じて五の宮にあった鐘は元々、小郡湾の対岸、福岡県刈田町の浄土院の鐘として造られた。中世の豊前地方は大友氏と大内氏の争奪の地であり、松山城主・杉家は大友氏に滅ぼされ、戦利品として五の宮に奉納されたものである。
「風土注進案」にも慶応三年(1340)堅嶋村の浄土院の鐘として鋳造され、元和二年(1616)に朝田村の氏子がお宮の用具として購入したと追銘がある。家康は「一国一城令」を発し、鴻峰城も取り壊される時期、周防灘を渡って寺から神社へと移った。
明治四十二年秋、萩の杉孫七郎氏が買い、東京・麹町の前山久蔵氏、八戸市の今淵正太郎氏を経て同氏の没後、淨智寺寄進された。朝比奈宗泉師は「危うくハワイに売られそうになった」という。県内に慶長以前の鐘は二十口しか残されていない。「よくご無事で」と撫でてやりたい。