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    道男の随筆

ルーツ探し@ ルーツ探しA ルーツ探しB  ルーツ探しC   ルーツ探しD


ルーツ探し@


 アンカレッジで給油、一日中太陽の沈まない北極圏経由ロンドン・ヒースロー空港到着の機内から永久凍土のシベリアの台地を見下ろしていた。無数の凍りついた川が真っ白な大地に続く。この南バイカル湖の西マルタ村に日本人に先祖が住んでいた。

 北極海のはるか上流バイカル湖から流れ出るアンガラ川はやがてエニセイ川と合流して北極海に注ぐ。アフリカで生まれた新人がマンモスを追ってシベリヤまでやってきた。マリタ遺跡の研究は1928年に農民が地中から大量の骨を発見し、今日まで組織的な発掘調査によって日本人のルーツも明らかになっていった。

 湖の東マクソホン村では縄文人二十九体中十七体のDNAが完全に一致したブリヤート人の存在が確認された。日本列島で石刃石器発見され、二万年前日本列島に細石刃文化が流入する。この氷河期(最終氷期)が訪れ緑の草木に覆われた豊かな土地も岩と氷の極地砂漠となりマンモスは樺太・北海道を経て新宿百人町まで南下する。それを追って朝鮮半島を経て山口県にたどり」着いた家族もあった。
 家の近くの道祖神峠で磨製石斧が発見され県立博物館に展示してあり、ホームページで見ることもできる。DNA研究によって、私の八百三十代前(一代約30年)はモンゴル斑点と前歯の窪みに痕跡を残す。(2004年10月14日)

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ルーツ探しA

 吉敷・良城小学校の学校林を活用して環境教育の行事が行われた。私も「山口里山ネットワーク」のメンバーとして参加した。アメリカ・インデアン(Native American)の狩猟用円錐テント・ティピー(tepee)を林の中に6棟立てる。2bほどの雑木を6本立てて、その回りを獣皮や,樹皮で巻く。我々の祖先がシベリアの大地でマンモスを追っていた狩猟用テントと同じものである。今から二万年前〜一万八千年前に氷河期が訪れる。暖かい時期と寒い時期が繰り返し訪れた。寒いが乾燥していて草原が発達していた時代もあって、これらの草原がユーラシア北部とアメリカ北部に拡がっていた。
 
 シベリアとアラスカで発見された後期更新世のほ乳類化石の種類はほぼ同様でバイソン、馬、トナカイ、マンモスゾウが発見されている。この時期インデアンはベーリング海を渡ってアメリカ大陸に到着し、一方日本人の祖先は北海道を経て南下したと推定されている。
 寒冷な環境に適応するには色素の変化、体重の増加(保温)放熱に有利な首、肢、尾などが短くなりモンゴロイド集団が寒冷地に適応できる特徴として示される。さてインデアンのテイビー、シベリヤの狩猟用テントも、縄文時代の縦穴住居も同様な作りで、保温できるテントや衣服が工夫された。(2004年10月21日)

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ルーツ探しB

 日本人はどこから来たのであろうか?その渡来経路は今でも殆ど分かっていない。最近のDNA分析により縄文人は東北アジアから来たといわれているが,長年南方起源説が唱えられてきた。東南アジア青年の船で二ヶ月を過ごしたアセアン諸国の青年の中で、確かに身体的にも、情緒的にも日本人とよく似た人々がいる。特にタイ王国の青年は全く日本人にそっくりといっても良い。

 考古学では、歯の特徴を根拠としている。歯は人骨の中で一番硬く,環境や時代の変化の影響を受けにくい。大きく分けて二つのタイプに分類される。日本人の歯を調べたところ東北アジア系が七割と大勢を占めたが、東南アジアをルーツとする人も三割程度存在することが分かった。しかし現代日本人は北方系と南方系が混在していて際だった特色が薄れているが、北東系(シノドント)は、歯は大型で複雑な形、前歯の裏がシャベル型で、中国を中心としたタイプ。東南アジア型(スンダドント)は、小型で歯冠や歯根の形が単調、大臼歯と小臼歯の大きさにかなりの差がある。太平洋や東南アジアのタイプ。

 氷河期、南シナ海には、マレーシア、ボルネオ、インドネシアに跨るスンダランドという大陸があった。この大陸から沖縄を経て稲作が伝えられたであろう。(2004年10月28日)


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ルーツ探しC

 江戸時代の多くの農民は文字を知らず、記録を残さなかった。それ故我が家のルーツを知る手がかりは口伝と位牌から推しはかる以外にはない。私で六代目といわれるが、仏壇の位牌を開いてみると、元禄年間(1688〜)に一代目が分家して小嶋家を名乗った。
 阿仙原という天然の要塞とも言える陸の離れ孤島に、住み着き開拓した盆地は、平家の落ち武者の里であったろうと言い伝えられている。

江戸時代八軒あった農家は美東町十文字の法栄寺の檀家で、先代河野正真住職にお聞きしたところ「昔戦争があって落ち延びてきた里」ということで詳細は分かっていない。

 今の河野文雄住職は十八代目で、類推するところ河野水軍の末裔ではないかと思われ、その手下で、陸に上がって隠れ住んだとも言えなくもない。すこし歴史を探ってみようと河野水軍のルーツを探し始めた。
 河野水軍の勇壮な武者姿は、山梨県清里の「青春美術館」に河野通明画伯の大きな油絵が残されている。瀬戸内海に君臨した海の領主・河野氏は道後温泉近くの湯築城を築き、近隣の大内氏、大友氏、毛利氏などと同盟を保ちつつ、伊予支配を維持し、秀吉に滅ぼされた。 (2004年11月4日)

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ルーツ探しD

 母方のルーツは柴川姓で、美東町宗国の峠を越えた小野村(現宇部市小野)で、長らく無給の村長を務めていkた。古い門構えの家には長槍や長刀が鴨居に懸かっていて大きな屋敷であったのを子供心に覚えている。小野の正恩寺の檀家で、住職の話ではそのルーツは大分県竹田市の「荒城の月」で知られる武田城の第一家老であった志賀○○が切腹を命ぜられ、その末裔であるという。住職は宇部市の文化財委員で、城跡に名前も刻んであるという。

 さて日本人の頭蓋骨を調べた結果、長州型と薩摩型があるという。長州型は短頭で背丈もずんぐり型であり、背丈も体躯も私とほぼ同様、縄文人の遺伝子を持つ。豊田町の「人類学ミュージアム」は弥生渡来人の埋葬人骨がドーム型屋根の下に眠っている。朝鮮半島を経て渡来したであろう。一方薩摩型は、額が広く、長身で、フリッピン、琉球、沖縄を経て渡来した海洋民族で、小舟を削った円錐ノミの遺物に特色がある。

種子島の西・鬼界ケ島カルデラの大爆発で鹿児島のシラス台地が形成され、その大地に縄文人の住居跡が多数発掘されている。私も黒潮の民のDNAを持つ。 (2004年11月11日)



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