朝田川流域の地蔵
朝田川沿いの石仏を見て歩くのが朝の散歩の楽しみである。平成8年から市教委が「山口の文化財を守る会」に委託して、平川・大歳・吉敷の石仏・石塔の調査が行われ、このほど報告書がまとめられた。総数は実に6百点に上り、大歳地区だけでも地蔵42点、六地蔵11点、観音10点、諸仏5点、塔11点、庚申19点、神33点、その他夜鳴き岩など9点が集められた。子供の頃に立岩にあった地蔵様などは何時の頃からか所在もわからなくなり、里村の原風景が少しづつ消滅していくのは悲しい。素朴な信仰は廃れていくのは止むを得ないが、一つの時代の文化として「温故知新」の知恵が求められよう。
朝田川流域の地蔵は、朝田墓地に享保6年(1723)の浮彫立像のものと、浮彫像(宝暦6年・1756)があり、斉藤宅に彫半跏像がある。元朝田古墳の近くにあったものを自宅に持ち帰ったという。河内部落の入り口に丸彫坐像(明和8年・1765)と石川宅前の太良郷に越える峠入り口に、丸彫立像の地蔵がある。阿仙原には、稜のあった竹薮に、丸彫立像が台座の上に90aの大きさで立っていた。台座に願主野村惣五良と文政3年(1820)の銘がある。その奥の墓地には、丸彫坐像の地蔵があるが刻字はない。
(2002年10月9日)
朝田川流域の観光
朝田川に沿って遡上しながら名所旧跡を訪ねてみませんか。古い朝田村の歴史を知ることができます。
昔はこの椹野川本流に合流するあたりを、土地の人は潮境と呼んでいる。椹野川の河口に琳光井手が作られて淡水化するまでは、このあたりまで潮がさしていた。ここに関屋という地名も残っていて、大内時代山口を防備する目的で石州街道の通行人を取り締まる関所が置かれていた。大内中期には、関銭も徴収したという。佐伯宅の東に、王子の森墳墓群と古墳時代の石室墳である門前遺跡が発掘されている。和田・朝田地区の境は陵ケ峠と呼ばれているが、その墓地に「子育観音」という石造宝塔がある。
この地は小鯖禅昌寺末寺である巨福庵のあったところで、同庵中興の光沢即明和尚が、大乗妙教を一石に一字づつ書写して埋め、宝暦7年(1757)に建てられた。古野宅の裏山に寺院の跡があり周囲は城壁のように囲まれ、春は桜の花が美しい。明貿易の第一回派遣団長がここの住職であったようで、誰かご教示を願いたい。朝田墓地に無縁塔があって台座に開山とあるが何寺の開山か分からない。郷多良橋詰めに文化8年(1811)の角柱がある。石橋建立の回国記念碑で、「奉納大乗妙典六十六部日本回国願主芸州廣島左兵衛」とある。(2002年10月23日)

磯部宅の門名を馬場といい嘗てはやぶさめも行われていたであろう。郷多良橋を渡ると真っ直ぐに道が朝田神社本殿に向かっている。以前はここに鳥居があって秋祭りの祭礼旗掲げられ、神輿が回ってきていた。朝田神社に統合される以前は五の宮という立派な郷社で、御旅所の高さ59aの各柱や鳥居の柱も残されている。明治の神社統合で本殿は高畠に移された。元は狛犬や寄進燈篭、鐘撞堂があり、古い文書に図面が残されている。植えたモミの木が大きくなり過ぎたので、朝田神社の宮成にお祓いをして2bばかり残して切って貰った。原風景を壊したとお叱りを受けたが、再度芽をふき出してくれよう。
朝田川流域には数多くの神様が鎮座されている。日本人は一神教ではないので、実に多くの神様を信仰してきた。アニミズムの諸々の神様は、農耕の神では大歳大神があり、火の神は、荒神(朝田ヒルズ東祠堂)、秋葉神(秋葉山頂)、愛宕神、山神、焼火神。日輪様(朝田ヒルズ東)水の神は、神(朝田ヒルズ東祠堂・馬庭東の山)、竜神、竜王、厳島大明神、病気の神は、厄神、疫神、家の神は地神、地主神、もりさま(磯部宅裏、屋敷橋袂祠堂二基・豊島家東・馬場森橋)、その他恵比寿、大黒天、弁財天、天神、稲荷、妙見、人丸様、七福神など見て歩くと飽きない。(2002年10月30日)
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墓地には、大抵六地蔵が祀られている。大歳地区では11点、平川地区では30点、吉敷地区で16点が集められ、「山口市の石仏・石塔」にまとめられ報告されている。朝田川流域では、朝田墓地入り口に6体の六地蔵がそろって祀られている。一番右に「施主吉敷郡山口朝田村中」と銘があり、一番左に「明和七寅七月」(1770)とある。賽の神峠の和田側の道祖神墓地入り口の光背型浮彫立像は、享保七天(1722)、今から約280年前のもので、この辺りでは、一番古く、「和田村中」が施主となって建立された。
朝田川流域ではないが、松下電器裏の高井墓地には、変わった子供の像らしきものがあって興味をそそられる。また「明和八辛卯六月」(1771)のものもある。また酒のディスカウント裏の郷之尾溜池裏の東墓地には、昭和三年(1928)建立の六地蔵がある。その側に高さ89aの角柱があって、「文化12年に伊藤五兵衛利休及び子助左衛門為久が法満寺側からトンネルを掘り水を引いて溜池を作った。お陰で高井・勝井では干ばつに逢わなかった。恩徳を偲んで、文化12年(1823)建立した。」とある。この貴重なトンネルは崩れかかっていて、空港道路が予定され、記念碑を建てて残そうと県土木事務所と協議が進められた。(2002年10月16日)
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