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『蒙談』41号原稿                 2007(平成19年)215日発行(7月転載)

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 佐用姫伝説を追って

 

 佐用姫のやまと男の子の遠征にひれ振る狂気の船出の別れ

                              (領巾振山・ひれふり山)

 

  蛇に化け初恋の姫に言い寄るは夢か現か学芸会の思い出

                                 (田島神社・佐用姫神社にて)

 

 プロローグ

 山口高校を卒業して50年、電力協議会に勤める西山勝彦君の尽力で「五十年目の修学旅行」の旅に出た。主目的は玄海原子力発電所であったが、呼子町、唐津市、鎮西町、玄海町を訪ね、有田、伊万里、嬉野温泉の秋を満喫して、翌日長崎自動車道で背振山脈の裾を横切り佐賀平野を遠望しながら、最後は吉野ケ里を見学する心おけない同級生の旅であった。

 車中、熊野汎美君が「昨年、『蒙談』を取り仕切っていた金本利雄さんが亡くなられ、40号で廃刊となっている。何とか復刊したい。」と持ちかけてきた。執筆者を見ると錚錚たるメンバーが名を連ねていて浅学な私の出る幕ではないと思っていたが、彼の熱心な勧誘で「佐用姫」について調べてみるのも良かろうと思いながらも、曖昧な返事をしていた。私は40号まで続いた地方文化の発表の場として継続し、復活させることの意義を考えていた。原稿を出した人が自分で経費を負担する。それならば私が得意とするコンピュータ編集で入力経費を極力抑え、インターネットに載せて多くの人に読んで貰うのはいかがであろうか、地方から中央に向かって発信できるのではと夢は広がってきた。

 一昨年大歳史談会で「佐用姫伝説を訪ねて」の自動車旅行を試みたが、それまでは関心も薄く、写真や資料も少ない。原稿を書くなら、それなりの準備をしておくのだったと臍を噛んだが後の祭り。大歳朝田神社に佐夜姫社があり、資料を集め、今度の玄海旅行で一つでも写真を撮ろうと心に決めたものの準備不足では何とも心もとない。「佐用姫伝説」とは一体何か?、それが大歳朝田神社にどうして分祀されているのか?佐用姫の信仰になぜ陽物を奉納したのか?最初は五里霧中の中から始まった

 

 糸島半島を往く

 九州高速道路から福岡都市高速4-1号線で百道まで、福岡市内を抜けて糸島半島のつけ根に出る。福岡前原道路を通り、築肥線と平行しながら前原市井原の田園の中にある白亜の「伊都歴史資料館」を見学。周辺には古墳が点在し、旧糸島郡関係の資料が展示してある。中でも国内最大級直径46aの変形内行花紋鏡4面があり、銅鏡破片や素環刀大刀(約1b、写真展示)勾玉、コハク製丸玉。第二展示場には、「伊都国」である古代糸島の縄文、弥生、古墳時代の出土品が展示してある。何といっても圧巻は、鏡に描かれた玄武の模様で、『魏志倭人伝』の卑弥呼の住む国の九州起源説を裏付ける有力な証拠ともなろう。高松塚古墳で、東西南北の模様の玄武も発見され、近畿飛鳥説との論争を更に引き起こしそうである。

 

 松浦湾岸を往く

 玄海国定公園に沿って走ると唐津湾が目の前に飛び込んできた。司馬遼太郎の「街道を行く」第十一巻「肥前の諸街道を行く」の唐津湾の奥、松浦湾の虹の松原が見える。ここは司馬氏の描写を借りよう。「肥前の中でも古代でいう末羅(古事記)国はこの唐津湾から平戸島の島々を含めるのであろう『魏志』でいう末廬国である。のちに松浦の文字を充てる。ついでながら「ら」というのはおそらく古代北九州で通用した言語の中で「国」をさすことばではなかったかと思われる、日本語の中で単に外国を表すことば(から・韓・唐)として発展していくことを思えば、古代このマツラあたりを加羅(伽羅)の関係は唐津湾の唐は本来「韓」だったに違いない。ここから今でも釜山までは近い。この唐津湾の東端にさしかかると湾の奧の渚をあざやかに緑で縁どっている虹の松原が見える。この湾の東端を走る道路はよほど高いらしく、ここから遠望すると虹の松原という松の密林がいかに長大なものであるかがパノラマのようによくわかる。長さ八`あるという、二里である。もとは「二里の松原」と呼ばれたらしい、秀吉の時代に大名にとりたてられた尾張人寺沢広高がこの唐津城主となって城を築き防風林として松原をつくった。」と案内している。

 司馬遼太郎という小説家は、各地の資料を集め電話で確認しながら全国の街道を巡る。吉田松陰の「世に棲む日々」の中にも、唐津や平戸の留学の様子を生き生きと描いている。司馬氏が小説を書き始めると東京の古本屋かららトラック3台分の資料が大阪に移動するとのエピソードがあるように、資料に基づいた詳細な描写があり、司馬史観に共鳴する読者はその歴史の空間を同行しがら歩く魅力に取りつかれるのかも知れない。私もその一人。さて一行は唐津市に入った。

 

鏡山・領布振山 

 唐津市。平成の大合併で付近の呼子町、鎮西町を合併して古くからの由緒ある町名が無くなったのは残念である。この唐津市や元呼子町の周辺を歩くと、佐用姫ゆかりの場所が多い。古代三大伝説の「羽衣」「浦島太郎」と「松浦佐用姫」は悲恋のロマンとして日本人に永く伝えられてきた。

 虹の松原から南方におわんを伏せたように見える鏡山(領巾振山、標高284b)に、『遠つ人 松原佐用姫夫恋いに 領布振りしより 負える山の名』と山上憶良が詠んだように、この山と周辺には恋する男と女の悲しい物語が語り継がれてきた。大伴狭手彦(おおともさでひこ)と松浦佐用姫(さよひめ)の永遠のロマンス伝説である。この山は孤立した一つの火山で、山裾の赤鳥居をぬけて、七曲がりならぬ16曲がりの坂道を登りつめると玄武岩質の溶岩で平たい山頂に出る。そこには沼を中心に神社、キャンプ場などが広がっている。狭手彦に化身した頭は蛇、胴体は人間というもので、佐用姫らしい人骨が発見されたと伝えられる蛇池が山頂にあり、満々と水を湛えている。

 宣化天皇2年(537)のこと、天皇は大伴狭手彦を遣わして朝鮮半島の任那の国を鎮め、百済を救わせた。この時狭手彦は唐津などの松浦郡に来て篠原の里に住み日下部君の一族の娘で絶世の美女と結婚した。やがて狭手彦は出征することになり弟日姫子(おとひひめこ)は山に登り山頂から身に付けていた領布を振った。後に書かれた『肥前国風土記』には「大伴狭手彦連船を発して任那に渡るとき、弟日姫子(佐用姫のこと)ここに登り褶をもって振招く、よって褶振山と名づく。然るに弟日姫子狭手彦と相分かれて五日径し、後人あり夜毎に来たりて婦と共に寝、暁に至り早く帰る、容貌狭手彦に似たり、婦其を怪み抱き忍黙あへず、ひそかに績麻をもって其人の裾の撃け麻のままに尋ね往き、此峯の沼の辺に到る。寝たる蛇(オロチ)あり身は人にして沼底に沈み頭は蛇にして沼のほとりに臥す。忽ち化して人となり、即ち語って言「篠原の弟日姫子ぞ正一夜(サヒトヨ)も率寝(イネ)てむしだや家に下さむ」そのとき弟日姫子の従女走りて親族に告ぐ親族衆を発し登りてこれを見れば蛇並に弟日姫子みな亡せて存(ノコラ)ずここにその沼底を見ればただ人の屍あり名づけて弟日姫子の骨と謂ひ即ち此峯の南につき墓を造って治め置けりその墓今にあり」と伝える。後世室町中期以後に、佐用姫を主人公にした御伽草子「さよひめ(作者不明)」が創作され人柱伝説として流布した。また謡曲「松浦鏡」として世阿弥の作曲で紹介されている。

 加部島で石になったという伝説と風土記での泣き暮らす後、鏡山の沼に沈んだと伝説は分かれる。鏡山の山頂の池にうわばみが寝ていたという話は後から創作されたものではないだろうか?謎である。佐用姫と狭手彦の伝説は万葉人の間にも流布され、多くの歌人が詠っている。この池は、灌漑用水に使っている山頂の溜池ではあるが、どこからかこの水は流れて来る。

 北松浦の白砂の海岸線や緑の帯をなす松原、江戸時代に開発された新田地帯、北西に松浦川と唐津城と市街地が見下ろせる。虹の松原の東、浜崎は玉島川の河口に位置し、江戸時代は漁港及び米の積み出し港として栄え、佐賀藩支藩の小城藩の米もここから積み出されている。江戸期に唐津藩、天領、対馬藩領として支配の変遷を経ている。何`にも続く幅広い松原の真ん中を唐津街道が走っている。

 西に続く半島には、古い町名で、呼子町、鎮西町、玄海町、肥前町、福島町が半島を囲むように連なっている。太閤豊臣秀吉が、朝鮮の役で全国の大名に呼びかけて軍勢を集め、出船したという名護屋城や、元寇の役のモンゴル村と続いて、さらに伊万里市へと続く。遠く松浦市、平戸市、佐世保市に連なる。この山頂一帯から土器、石斧、石鏃が出土して神聖な儀式が行われたと説明板がある。

 

田島神社・佐用姫神社

 玄海灘に突き出た島を結ぶ高さ日本一の佐賀観光名物「呼子大橋」を渡って田島神社を目指す。海岸縁に沿って行くと田島神社・佐用姫神社前に行けるという。風の見える丘で風車を見る、この辺りは風車を多く目にする。ヘリコプター観光基地となっている空の案内場の看板を見ながら佐用姫像のある所に出る。加部島の天童岳は姫が石になったという場所に唐津焼きの等身大の佐用姫像が海に向かって立つ。風の見える丘を下れば呼子の対岸の田島神社前に出る。そこに佐用姫神社がある。

 海の神様・田島神社にお参りする。元寇の役で蒙古軍の使ったイカリ石(約2b)が数個奉納してある。佐用姫神社はその境内にあり朱塗りと白の社で、中に佐用姫の石が据えられ奉納されている。朝田神社のコンクリートブロック製の祠の中には佐用姫が岩に座し、遠くを眺めている色彩像があり、男根が添えられているが・・・。ここでは大石が据えられているのみで、外は何もない。

 

 

呼子の活き造り

 旅の面白さはなんといってもその地方の習俗や名物を味わうことであろう。佐用姫を追うのを忘れて横道に入ろう。魚貝類や朝市で有名な呼子。玄海灘に向かって5b程の観音様が見守っている。名物イカの刺身や、それを天ぷらや塩焼きにして出している。呼子の海岸に沿った裏通りには朝市が毎日立つ。ゆっくり歩いて味見をしながら値切り交渉をするのも面白い。

 

名護屋城・佐賀県立歴史博物館

 呼子の町は、名護屋大橋を渡った海中展望台のある鎮西町と対峙する町で、対岸が島か半島か紛う程入り込んだところである。この湾から、太閤秀吉は朝鮮の役に船出した。秀吉は在陣の折、佐用姫の「望夫石」の説話に感動したらしく、文禄2年に百石を寄進した記録が残り、徳川幕府にも引き継がれることとなった。忠臣加藤清正や小西行長は、朝鮮の役の先陣を切る。外様であった徳川家康別陣、伊達政宗、毛利秀頼、黒田長政は、こちらの浦の「殿の浦」で陣を構えた。輸送基地として波状的に壱岐、対馬を経て朝鮮を攻撃したであろう。

 文禄・慶長の役(壬申・丁酉倭乱)は16世紀末、豊臣秀吉が起こした朝鮮半島・中国大陸に進出しようとした侵略戦争であった。戦いは前後7年に及び、戦渦は朝鮮半島全土に及んだ。この出兵基地となったのが名護屋城である。朝鮮半島に近く、天然の良港を持つこの地に、極めて短期日のうちに一大都市が誕生した。秀吉は全国から参集した大名に名護屋城を築くことを命じた。城壁は分担が決められ、自然石を積んで野積工法を取るところ、石を割って綺麗なカーブを描くところ、それぞれの藩の特色が現れ、技術の差も見られる。とてつもない大きな城塞である。ドイツのモーゼル川とライン川に跨るコブレンツの十字軍要塞を思わせる城塞である。周囲約3`の園内に、約120もの陣屋を築き、それらは鎮西を中心に、呼子、玄海町まで拡がっており、今までもその半数の石垣や土塁が残っている。徳川家康は名護屋城の中心部にも大きな陣があるが、呼子にも別陣を設けている。中心部には前田利家、小西行長、長宗我部元親、石田三成、木下勝利、藤堂高虎、加藤清正、小早川隆景の陣が名護屋城を囲み、外様の加藤嘉明(呼子大橋付近)、毛利秀頼、徳川家康別陣、伊達政宗、黒田長政は対岸の呼子に陣を構える配置である。当時農漁村の小さな町(約2千人といわれる。)に30万の兵が集結し先陣を送り出し、兵站基地として輜重兵も相当いたのではないかと推測される。何百艘の船団が壱岐、対馬を経て釜山に渡り、京城、平城と進み、朝鮮兵の耳をそぎ落とし(最初は耳を集めたが耳は2つあるので軍忠状は鼻となった。)何百万の鼻がそぎ落とされたという。傷病兵は武雄温泉などに休養させ、捕虜の陶工を連れて帰り、伊万里や有田の里に閉じこめて陶器を焼かせた。農民の蜂起によって戦線は動かなくなり、秀吉の死によって引き揚げるが、やがて2年後、時代は関ヶ原の役で二つに割れ、徳川の時代へとなる。江戸時代になると、朝鮮特使の大友好団が江戸に向かう。その後日韓は友好関係を保つが、日韓合併により再び、近くて遠い国になった。戦後、長門仙崎から引き揚げる朝鮮半島の人の略奪はすざましいものがあったと述懐する人も多い。今、韓国では、伊藤博文、加藤清正、小西行長が三悪人として扱われる。

 この城跡に立つと絵巻を見るように、時代の狂喜を感じさせる。この戦争に協力しない大名は、磔付けになったり、お家断絶された者など国内でも容赦されなかった。高島神社や佐用姫神社のある加部島の「風の見える丘公園」に立つと、時代の風の音や軍馬の嘶きが聞こえるではないか。

 年表を見ると狭手彦が新羅征伐に出征はしたのは537年。翌年538年(欽明7年)には、百済から仏教が伝わり、やがて聖徳太子が摂政となる時代に入る。さらに和冦の松浦党の暗躍や蒙古来襲、キリシタン弾圧、オランダ貿易、明治維新の勲功、そして玄海原子力発電所の稼働、プルサーマル計画受け入れなど、朝鮮半島に近いだけにここは歴史の舞台に登場し続けて来た。

 

上湯田の佐夜姫社

 山口県教委と山口市教委が大歳の「チンコの神様」を調べた「佐夜姫社調査概要」(昭和29年5月)には田村哲夫氏のガリ版刷りの資料が報告されているが、それをワープロで復刻した大歳史談会の林梓氏の資料によると、

 場所 山口市大歳字矢原上湯田414番地岡田安一宅内瀬戸川べり

 社名 佐夜姫社 元上湯田鎮守正八幡宮末社、現大歳鎮守朝田神社支配

        土地の人はこの社のことを「佐夜姫様」とか「御前様」と呼び習わし世間では俗に「マラ観音」とか「チンコの神様」と称えている。

 祭神 松浦佐用比買(マツウラサヨヒメ)

    梵灯庵主袖下抄に「松原佐夜姫と云は、狭手彦大臣を其時のみかど唐    土にお使いにつかわし賜いけるに、都より佐用姫をもろこしまで連れ    てゆかむとて具しけるがいかが思いけむ捨行ければ小夜姫空しくやみ    ぬ船のみゆるかぎりはこいしたいけれどもかいなければ高き山にのぼ    りて、袖もて招く船かくれて後やがて石となりぬ(望夫石)佐夜姫が    なく涙紅にながる砦のかたち女の衣をかずき臥したる体なり狭手彦    3年すぎて帰り佐夜姫を神に祝う云々」と書かれ、後世曲亭馬琴は、    この伝説を題材にして『松浦佐用姫石塊録(1015冊)』に小説を書    いている。

 神体 佐夜姫像(陶製(粘土ヤキシメ、9寸余、座像胡粉彩色、像内部に「明    治3011月1日」山口鴻峯麓住小池團造作之」と彫刻されている。

 神殿 瓦葺 木造

    高サ 8尺5寸(内台石高サ1尺9寸)

    方  3尺

    室内の右側に張紙があって「昭和14年9月24日御修繕の造作肥前島原ニ祈ル左像姫浦乃岩の上ニ石となりたもう 山口市外大歳村矢原上湯田」と書かれている。一説には熊本県天草島に祀ってあった佐世姫のご分霊を勧請したものと伝えられているらしい。

    しかし神祇辞典(山川鵜市著)には佐賀県肥前国東松浦郡呼子村加部島鎮座田島神社の條に末社佐與姫社あり大伴狭手彦の妻佐與姫を祀る」と見え、又日本風俗志(加藤熊一郎著)下巻九州地方肥前の條に「今肥前国東松浦郡加部田島島神社内なる佐用姫の祠には女の形したるありという」と云い、太宰府管内志下肥前国田島神社の項に「師ノ柳園随筆」より引用して「鳥居を入て左の方にちいさきほこらあり其内に石ありと云り佐與姫は末社なり神官平野蔵之丞と号す」と載せていることからして、唐津海岸に佐夜姫社があるものと思われる。

沿革  大歳上矢原の岡田早助の話によると明治の初年に大歳上湯田の長富へえだ(兵太か)という村の鎮守正八幡の世話をしていた人が、九州に旅行した際、肥前唐津の海岸に佐用姫を祀った神社があり、男女の腰から下の病に霊験著しいということを聞き、是非にと分霊(陶製の佐用姫像)を勧請して帰り、鎮守(正八幡)の末社としてし祠堂を建て、安置したのが発端である。

    その時は吉富寅太(村長)のところに社があった。その後大津郡から参詣したある人が密かにご神体を持ち逃げしたらしく行方知れずになったことがあり、今の像はその時大歳小学校の前に居住していた水木さんという人が、ご神体の記憶をたどって佐用姫の像を焼き、安置したという。

 

 私はその経過を確かめるため、小・中学校で同級生であった岡田実氏を訪問した。「子供の頃に自宅に祀ってあったが、その頃はあまり意味を知らずにいた。写真もない。兄貴が家にいるので」と気軽に矢原・幸町の岡田義人氏宅を案内して貰い資料、写真を提供していただいた。「庭の隅に祀ってありました。新宿区信濃町で月例談話会を開いている事務局長の大島建彦氏が平成1510月に山口大学で開かれた日本民俗学会の折訪問されたので、その時話をしましたと『西郊民俗』(第192号)「山口市のサイノカミとサヨヒメさま」という5頁にわたる資料を元に話していただいた。「このサヨヒメさまというのは、もともと下の病の神として九州から持ち帰ったもので、子供の寝小便や性病に効くというので年寄りや子供もお参りしたが何よりも湯田の遊郭の女がお参りしました」。

 明治42年神社統合訓令によって大歳七社が合祀されることになり(明治42年4月27日認可)湯田の正八幡などは朝田神社に祀られることになったが、その側にあったサヨヒメ様だけは引き取って貰えなかったので、早助(岡田義人氏の曾祖父)が引き受けて大曲の用水の側の邸内に移し祀ることになった。

 毎年12月9日頃の吉日を選び岡田さんの世話でお祭りが行われ、大歳の朝田神社の神官が御幣を切って祝詞をあげられる習わしになっていた。当時は遠くからも多くのお参りする人があったという。なおこの祠堂の前に小さな石鳥居があり「日本第二世佐夜姫社」と刻んであったが、今は鳥居はなくなっている。

 大歳地区の『公民館だより』には史談会の藤井晃氏が「佐用姫様は、明治の初年、村の鎮守正八幡宮の世話をしていた人が、肥前唐津の海岸に佐用姫を祀った神社があり、男女の腰から下の病に霊験著しいことを聞き、是非にと分霊(陶製の佐用姫像)を勧請して持ち帰り、鎮守(正八幡宮)の末社として祠堂を建て安置したのが発端である。その後、盗難にあったりしたが、明治の末に大歳の七社合併の際、本社とともに廃社となり、信仰厚い地区の人達が現在の地に移したものである。祈願者は佐夜姫様が夫君との交情久しからずして非業の死を遂げ、さぞ本意なく思っておられるであろうと、その心中を察して夫君の身代わりとして陽物を作って奉納するのが例となったものと思われる」とまとめている。

 岡田義人氏は、増築のため移すことが奉賛会の中で話し合われ「平成2年に家を建て替えることになって何処かに移すことを考えた」。「周布公園に移すことも検討されたが、市の公園で宗教施設は望ましくなく立ち消え、湯田の観光協会が金を払って買い取りたいとの話もあったが、神様を金銭で売ることに反対もあり立ち消えた。大歳農協理事の多田俊夫氏と先代の宮成勝彦宮司の計らいで、朝田神社の現在地に移転することになった。その本殿の右側に小さな祠を建て、全てこれに関わるものを移した。宮成宮司の家が焼け資料は焼失した」という。移転費用は岡田さんと朝田神社で負担した。朝田神社の現宮司、宮成恵臣氏によると、「現在は毎年1月15日に御幣を供え、注連縄を架け替えているが、お参りする人も男女を問わずある。お参りする人も高齢化していつまで続くかは分からない」という。

 信仰 

 祈願者は佐用姫が非業に死しその心中を察し夫君の身代わりとして陽物を作って奉納する例となったという。佐賀県の加部島の田島神社の佐用姫神社には大きな石が祀られているが陽物が奉納されてはいないし、佐用姫を「チンコの神様」として腰から下の病気に霊験著しいとの多くの信仰を集めていたとも聞かれなかった。こういった。陽物の奉納の例は、伊豆下田の了仙寺や河口湖畔の郷土資料館にもあり、全国にも堤防決壊の人身供養として美女を供したとか、甲府盆地の湖水を富士川に流す時人柱が供されたなど色々な言い伝えと共に残されているが、大歳の佐夜姫はいつの頃か「チンコの神様」として、湯田温泉の芸者衆や子供の寝小便に悩む主婦の間に広まったものと思われる。祈願のかなったお礼に男女とも陽物を奉納する例になっているという。奉納されている陽物には「子バチ姫様、御船病気ノ為メニ差上申候御たすけ下されませ、男子甲形」という例もあり、病気を救って貰いたいと陽物を奉納しているところを見ると平癒のお礼だけではなさそうである。

 

朝田神社の佐夜姫社

 朝田神社の本殿はそっくり五の宮の社殿を移したもので百年前の五の宮の面影を偲ぶことができる。その本殿の横にコンクリートブロック製の屋根瓦付の佐夜姫社があって、中に花崗岩の祠堂があり、その中に陶器製の焼き物に彩色を施した佐夜姫と陽物が祀られ、箱には陽物が納まっている。昭和29年の調査では、「桐材13本、松材5本、杉材3本、椚材3本、樫材1本、楠材1本、柑橘材1本、檜材1本、不明材1本、以上木製のもの31本、粘土1本、粘土焼12本、以上粘土製のもの13枚、その他墨絵書のもの2枚」と報告されている。「特に桐材のものが多いのは桐は焼いて粉にして服用すれば、性病の薬に良いとの俗信があり桐の髄は穴があけ易く穴を空けた陽物を奉納することによって早く尿の排泄が良くなるように、よく通るようになったとの意から、桐材を多く使うそうだ」と記されている。現在は木製、粘土合わせて47本あるが、粘土製のものは報告数と比較して僅かに2本で、最近奉納されたものも加わっている。

 

学説

 柳田國男氏はその著「民俗学辞典」の中に松浦佐用姫の意義を解いておられる。「佐用姫のサヨは賽(サヘ)の神を意味し、松浦のマツは神あるいは貴人に対する奉仕を意味する言葉である。したがって松浦佐用姫は固有名詞ではなく、本来は遠く遊行して諸国の神の祭りに参与した一群の女性を指す言葉であった。道祖は情欲の神でありこれを邑境(むらさかい)において饗しかつ祭る場合に美女を供してその心を慰めたという」とあり、「佐用姫は道祖神の信仰に通じる」と述べている。

 また道祖神の信仰については「日本民俗学辞典」の中で「賽神(サイノカミ)・賽(サイギル)を古義と信ずる。賽は岐神(クナド神又はフナド神ともいう)の信仰であって疫病邪霊等の入り来るを排拒する為に祀ったのが其神体が男根に擬して作られたもので性器崇拝の中心となり猿田彦神や青面金剛(せいめんこんごう)まで附会され種々なる俗信を生んで現在に至ったのである」といわれ、道祖神を性の神としての信仰を説かれている。

 佐用姫悲恋の伝説が賽神の古い信仰に基づいて発生し世間から性の神として祈願されるようになったとの見解を県教委の調査員の田村哲夫氏は結論付けている。

 さらに「防長民俗第2号」の河村光二郎氏の『山口在のチンコの神様』の中に「勧進当初は男も陽物を供して性病治癒の祈願をしたものだが、医術の進歩によって祈願の範囲が婦人病だけに縮小されてきた」「ところで供物の陽形は祈願を込める婦人が自分の手だけで作らなければ神様は嘉納せられない」と述べているが「奉納されているものは82歳男とか男子申、卯年男、24歳男など男子が奉納したものが多い」と報告され「婦人が奉納しても陽物であるので仮に男と記名して奉納したのかも知れないが、土地の人の話によると子供の寝小便にも利益があるとか、かえって近くの人より遠方の人の方がお参りは多い。男女とも腰から下の病気のようなものにはすべて効験ありとするこの種の信仰は全国諸所に江戸時代から盛んであった。この矢原の神様も敢えて婦人病専門のみと断定できない」と結論付けている。

 

賽の神と佐用姫

 前記の西郊民俗談話会発行の『西郊民俗第192号』(平成17年9月発行)にも大島建彦氏が「山口市のサイノカミとサヨヒメさま』の中で柳田国男氏の説を引きながら「佐用姫は道祖神の信仰に通じる」とつけ加えて「山口県のサエノカミは多く峠道ーそれも峠を越す辺りとか峠の口のわかれ道などの祀られている」として、平川・吉田から大内・御堀のサイガタオ、吉田の馬木の坂本の辻の「猿田彦大神」大歳の和田から馬庭・河内に越えるサイノカミ峠に「道祖神」と大きく刻んで、横に「昭和27年道路改修記念」と刻んだ自然石や吉敷・中尾「猿田彦大神」大殿の道祖町(防長風土注進案ではサエノチョウ)と「サヨヒメ」を報告して「サエノカミとサヨヒメ」を一連の性の神様として報告している。

 賽の神信仰と佐用姫伝説の結び付きを再度調べて見る必要があろう。

 

小嶋道男 住所;山口市朝田2158-1

     大歳史談会会

     小金井市教育委員会に

     社会教育主事として勤務

     平成10年に定年退職して帰山

     4年前からホームページに

     エッセーを、ブログに

     「道男の随筆」を週1回更新。

          http://blog.goo.ne.jp./mitio1940

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    (平成19年2月発行・雑誌「蒙談」42号から転載)