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今夜の番組チェック

戦後60年C
 

 早稲田大学に入りたい一心で受験勉強に励んだが、阿仙原の山猿ではとうてい現役合格に及ばなかった。大学の合格発表の掲示板前で、顔からサッと血の気が引くのが自分でも分かった。京都大学裏の百万遍の近くの平安予備校寮に入って浪人生活が始まった。まだ米穀通帳なしでは米の配給が受けられない時代であったが、京都大学の食堂では食券がなくても食べることができたので、配給制度も徐々形骸化していたのであろう。京都での浪人中は下関吉田の松林寺の従兄が龍谷大学で学んでいたので時々アルバイトもさせてもらった。
 住職は休みの日には私を茶坊主として随行させ意味も分からないままお経を隋唱させられた。大阪万博が開かれた茨木、千里ヶ丘あたりののどかな農村を思い出す。

 その頃、愛親覚羅慈生さんと南部鉄道の御曹司大久保さんの天城山心中事件が起きた。同世代の事件であるから興味を引いた。慈生さんの母親は嵯峨浩さんで「流転の王妃」を出版され、娘さんの思い出を切々綴って興味深い。元満州国・宣統帝薄儀氏の弟薄傑さんと結婚され、満州国と日本の橋渡しとして戦後を生きた。中国旅行では一夕薄傑さんに夕食を招待された。清朝に繋がる人々の話題は多い。中でも中国語を習った朱浩東先生の思い出は忘れられない。(2005j年9月1日)














戦後60年D

 早稲田大学のキャンパスは女子学生であふれていた。特に私の入った教育学部や文学部に多い、政経学部や法学部、商学部・理工学部にも女子学生が机を並べているのは戦後大学の姿である。
 学内には自動車部というものがあって全国ラリーを大學対抗で行っていた。まだ自動車は珍しい時代であったので、その自動車部に入って夏休み軽井沢合宿に参加した。北軽井沢の合宿所でトラックを押したり油まみれの部活であった。部長は現在衆議員議長の河野洋平さん。英語部にも属して英語劇も行ったり、サークルを作って農業基本法の勉強会なども開いて多彩な毎日であった。60年安保改正の時期を迎えていた。わたしもクラス委員長を引き受けて担当教授と休講を交渉したり、デモに出かけたりした。決して過激派ではなかったが、このままでは民主主義が滅びるとの危機感を抱いていた。学生運動は激しさを増し国会突入の翌日は半数以上のクラスメイトが負傷し入院していて、新宿駅頭で学生救援募金活動にも立った。下宿は西部沿線の練馬区下神井で、新宿に出るには便利が良い。友人と酒盛りをしたり、歌声喫茶やシャンソン喫茶などに足繁く通った。歌舞伎町や浅草、中野が青春の自由大學であり、五木寛著「青春の門」の信吉そのものであった。(2005年9月8日)





















戦後60年E

 大学を出る頃は東京は高度成長期に入ろうとしていた。「貧乏人は麦飯を食え」と池田勇人総理は所得倍増計画を発表。東京はオリンピックを控えて新幹線の建設や高層ビルラッシュ、高速道路の建設が始まっていた。同級生の多くはマスコミ関係の仕事に就いたが私はもう一度法学を学びたい。専攻の教育行政の方面に就職したいと思っていたが、卒業間際になっても仕事にありつけないで、焦っていた。ゼミの先生に相談すると小金井市で社会教育主事の募集をしているのでと紹介状を書いてくれた。東大・教育大の学生と一緒に面接を受け、早速卒業と同時に出勤を命ぜられ、四十年にも及ぶ社会教育専門職としての仕事が始まった。小金井市は市制を敷いて間もない多摩地区の郊外で、昔ながらの田園風景が広がっていたが、東京大都市圏が膨張を続ける中で、二、三年の内に都市としての様相を呈し始めた。中央沿線は年速4キロというスピードで郊外へとベッドタウンが膨張していった。社会教育の仕事は日曜日や夜の仕事が多い。法学部に学士入学したものの出席日数不足で4年にもなりやっとの思いで卒業させてもらった。仕事と勉強でこれほど懸命だったことはかって無い。仕事も多岐になり文化、図書館、体育を担当。青年学級の人たちとの交流はまだ続いている。(2005年9月15日


















戦後60年F

 就職して間もなく所帯を持った。まだ学校に通っていたので学生結婚のはしりであろうか。仕事は多忙を極める.深夜の帰宅。体育まで手が回らないと酔って口論になったこともある。間もなく体育大出の高校教師が入ってきた。福山真介君で頑丈な体とスポーツは何でもござれという偉丈夫であったが、少し前にガンで亡くなった。東京陸連の審判員となって日曜出勤が続いた。東京オリンピックが始まって聖火リレーの一部署を担当。そこには円谷幸吉選手を思い出す。府中陸上競技場で黙々と走っていた自衛隊体育学校の円谷は、甲州街道をひた走ってアベベ選手に抜かれ三位となった。四年後のメキシコを目指しながら「もう走れません」、「父上様母上様三日とろろおいしゅうございました干し柿ももちも・」と書き残して・・

 奥多摩路を走る青梅駅伝は、毎回二万人以上の参加者が仮装して御獄までを正月の寒風を突いて走る。審判員は最後の走者が走り抜けないと引き揚げられない。農家の人が甘酒やジュースをサービスする。まことにのどかな風景で審判員はそのおこぼれに預かる。早稲田の瀬古選手もここで優勝してデビューした。東京マラソンや女子マラソンも今テレビの中継を見ていると沿道は高層ビルが建ち昔の街の面影はない。時々知った審判員の顔が写る。

(2005年9月22日)














戦後60年G

 今五十嵐匠監督によって「長州ファイブ」という映画製作が進行していて、萩市や下関市でのロケも計画され12月にクランクインするという。

 「長州ファイブ」とは文久三年(1863)長州藩の首相格であった周布政之助が長州藩ご用商人大黒屋の番頭貞次郎に頼んでイギリスに密出国させた井上聞太、遠藤謹助。山尾庸三、伊藤俊輔、野村弥吉の五人をいう。この五人の英国留学記念写真が私も訪れたこともあるロンドンの日本大使館に残されているという(『奮発振動の象あり』松野浩二著)

 写真について調べているがその資料も膨大で何処から手をつけてよいか分からない。明治29年の大歳尋常高等科の卒業写真が見つかった(祖父・道之進は高田尋常高等小学校をその頃卒業)田舎でも卒業式や入学式には写真屋さんが学校に来て集合写真を撮ったのであろう。私も生まれて間もない頃に釜山で撮った写真もあったが紛失しおてしまった。残っている写真は小学6年生の校庭で三井茂先生を囲んで撮ったスナップである。中学に入って初めてコニカカメラを買って貰った。その頃には日本のカメラも世界を凌駕していた。高校・大学とそのカメラが大いに活躍した。最近はデジタルカメラをポケットに忍ばせているがそれももう流行遅れで、携帯電話で気軽に送信しているようだ。(2005年9月29日)












戦後60年H

 外国旅行も気軽にできる世の中になってきた。外国人留学生も山口の町を闊歩してて国際化の時代を身近に感じることができる。特に留学生十万人計画が策定されて留学生が増え、山口大学でも二百人を越す留学生が学んでいる。彼等の一番困っているのは物価高と住居の問題という。物価高は私にはどうしょうもないが、せめてアパートを紹介したり、留学生の共同の生活空間を作ろうと奔走しているが困難を極める。東南アジアの留学生に安いアパートを提供してくれる善意の家主さんはいませんか。今後留学生も増大していくし収入も安定すると思いますので是非ご協力を!

 さて私のヨーロッパ旅行はバスで六カ国を回ったのが最初である。昭和41年(1966)で早稲田大学欧州使節団に参加した。まだ外貨の持ち出しは15000円で買い物は何もできなかったが、EC諸国の戦後の復旧と新しい試みの実情を垣間見ることができた。ケンブリッジ大学は夏休みで深閑としていたがパリ・ソルボンヌ大学では大学紛争の火が燃えていた。日本にも飛び火して東京大学安田講堂事件や早稲田にも鉄柵の門が設置されるなど大学も大きく変わってきた。ラグビーの故大西鉄之助先生とシャンゼリーゼ通りを歩きながら語った。帰国後先生の御宅でラガーマン達と奥さんの手料理で飲んだ酒も美味しかった。(2005年10月6日)

















戦後60年I

 青年の海外派遣が始まったのは昭和34年(1959)の皇太子ご成婚記念からで、まもなく半世紀を迎える。ドイツでは戦後間もなく近隣諸国との友好親善を進める目的で、幼稚園からの近隣諸国への訪問、中・高校生になれば近隣諸国やアフリカまでも訪問して友好親善と奉仕に努める。そのための政府援助も大きく三人以上であればそれを補助する仕組みが青少年法に規定されている。

 文部省社会教育局青少年課「日独青少年指導セミナー」事業を始め、財団法人世界青少年交流協会に委託して指導者の養成を始めた。昭和49年(1974)に第3回指導者セミナーが行われたので応募した。国立赤城青年の家で合宿して事前研修が行われ、8月に1ヶ月間のドイツでの研修が始まった。日本の参加者は19名で、ドイツ側は青少年家庭保護省のツベンツナー氏やエルゼ・ロッテレンダー女史の奮闘で大きな収穫を得ることができた。交流協会の川崎秀二会長は、厚生大臣時、国民年金制度を作った人で大きな体とガラ声で叱咤鞭撻して送り出してくれた。先生はドルトムンドの陸上大会で少年達が汗水流して働き、規律ある振る舞いに感動。「ドイツに学べ」と協会を設立して派遣を始めた。私も毎年のように青少年を引率いてヨーロッパやアジアを訪問することになる。数えると二十二カ国に及ぶ。(2005年10月13日)


















アートフル山口

 観光事業は21世紀のリーディング産業の一つとして期待される。昨年国土交通省から「美しい国づくり政策大綱」が発表され、観光振興と国土美が国の主要政策として位置づけられた。観光といっても人口減少や少子化の中ではかってのように莫大な資本を注ぎ込んでのホテルや施設整備は不可能で、投資があまり大きくなく、環境にやさしい住んでみたい街づくりが今後のポイントになっている。その意味で「アートフル山口」の試みは注目される。一の坂川や周辺の町並みを舞台に民家や店舗の協力で芸術に親しむイベントは今年で十年目を迎える。
 
瑠璃光寺から中央商店街まで古い民家で美術展やコンサートなど百種類を越す事業が展開される。協力店は20軒を越す。新市発足に伴う歌の発表会、来年の国民文化祭のプレイベントや民家を開放してのお宝や美術品を展示する「小さな美術館」はなかなかの好評である。私も山口まちづくりセンターのメンバーではあるが専ら鑑賞者の側で、高校生のボランティアや観光ガイドが案内役を引き受ける。山口や萩などは観光客も減少しているものの町中でさまざまな努力があるのは喜ばしい。観光は歴史や文化の香りがただよい自然が豊かであることが不可欠だが、なんと言っても温かい気持ちが伝わることが必要である。(2005年10月20日)













反射炉


 反射炉は鉄などの金属を溶かす炉で、幕末には大砲を鋳造するために大量の鉄を溶かすことのできる反射炉が必要であった。
 佐賀県の鍋島藩主鍋島直正は長崎警備を預かっていたこともあって、西洋の情報をいち早くキャッチすることができ、強いリーダーシップを発揮して財政改革や医学、科学技術を取り入れて多くの人材を育て薩摩長州と並ぶ明治維新の雄藩として近代日本を築いたことは良く知られている。鍋島藩ではオランダの技術書を翻訳して理論や仕組みを学び日本で最初の反射炉を作りあげた。

 反射炉は鉱石を溶かす炉がアーチ型に作られ焚所(燃焼室)の炎や熱を壁や天井に反射させ填所(溶解室)の金属を溶かして取り出すもので、炉を高温に保つために燃焼室に大量の空気を取り入れられるような工夫や高い煙突を備えている。佐賀藩の反射炉は2つの炉を並べて1基とし、1つの炉で2d以上の鉄を溶かすことができた。長州藩は東萩のシーマートから笠山に行く途中に反射炉が残されているがこれは失敗で、大砲を作るまでには至らなかった。また静岡県伊豆韮山代官江川太郎左右衛門は韮山に反射炉を築き関東の警備に力を発揮する。江川はペリー来襲の2年後の1855年に死亡するが鍋島正直とも親交があり科学技術の商法交換をしていた。(2005年10月27日)












 

宮本の調査ノート

 周防大島文化交流センターの依頼で民俗学者・宮本常一の調査ノートの翻刻を引き受けて大学ノート一冊分の入力が終わった。
 宮本の「対馬調査ノート」はカタカナで記録され図やスケッチが描き込まれていて読み下すには難解で碑文などは古文書の解読能力を必要とするが、素養のない私は戸惑うことが多い。判読不明のところは■字で容赦して貰ってフロッピーをジープに積み込んでるんるん気分で周防大島町に向かった。天気は快晴、山陽自動車道は快適、大島大橋を渡ると渦潮が渦巻くミカンの里、旧東和町は大島の東の果て、岩国や宮島が瀬戸内の穏やかな海の向こうに見え隠れする。タコでも釣っているのであろうか舟に老人が一人。釣り竿を乗せて来るのだったと嘆いてみたがミカンの最盛期で段ボール箱いっぱいに仕入れてきた。
 故宮本常一は大島郡東和町の沖家室の出身で、全国くまなく歩いて調査を行い、その記録は大学ノート700冊になるという。写真も膨大なもので十万枚を越すという。
 宮本の県内調査は1949年頃からで室津半島、見島、阿武川ダム水没地区、宇部市山口炭田、生見川ダム水没地区、弥栄ダムなどで大島郡を除いても一万枚に及ぶ。写真や記録は懐かしいものばかり、高度成長とともに何を失ったかが良くわかる(2005年11月3日)


この宮本民俗学者は



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