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今夜の番組チェック



写真は市報やまぐちより

戦後60年A

 昭和22年(1947)教育基本法と学校教育法、社会教育法が施行され戦後教育が始まった。湯田温泉駅前にあった裁縫学校の校舎を借りて新制中学校が発足し、吉敷、大歳、平川の中心部に鴻南中学校の建設用地買収が始まった。吉敷木崎の田圃の真ん中に運動場を整備し、解体された陸軍庁舎を移築して校舎建設も始まった。目標は一本の国道が大歳駅前から大橋に向かって一直線に延びていて、そこから学校に向かって砂利敷きの道が造られた。
戦後まもなく、大歳駅前から大橋までを一時通行止めにして駐留軍の飛行機が臨時滑走路として降り立ったこともあった。
昭和26年4月、鴻南中学校は植えられたばかりのちいさな桜木が僅かな花を咲かせていた。校庭の片隅は芋畑であったり、雑草が生い茂る運動場であったり、発足3年目の学校はまだ整っていなかった。
2年生のとき学校で三田尻(現防府)駅構内の特別列車に仕立てられた「テレビ見本市」を見学した。東京から電波で送られてくる画像に驚き、皆歓声を上げて見学した。翌昭和28年テレビ本放送が始まった。
 朝鮮戦争が始まっていたし、マッカーサーが解任され帰国命令が出たとの記事も、「講和条約発効」の県庁前の垂れ幕も脳裏に残る。
日本も敗戦の痛手から漸くひとり立ちし世界の仲間に入ろうとしていた。

 

昭和38年頃の鴻南中付近中央が今の維新公園










戦後60年B

昭和29年(1954)4月、後河原の旧制山口中学校の校舎に入学した。先年(昭和26年)失火によって消失し、僅かに残った校舎が教室である。もう自宅からは通えない遠くで、白石の古い下宿屋に賄い付きで高校生活が始まった。
西校舎にあった山口中央高校と分離し、夏休みの暑い日に机と椅子を糸米校舎に運んだ。糸米校舎は山口大学文理学部の校舎であったが東校舎と交換して広い運動場、伝統と威厳のある講堂、二階建ての校舎で青春を謳歌した。
昭和30年(1955)山口高校と山口中央高校が分離された。元々男女共学の新制高校として発足したが女子は中央高校に、山口高校は女子進学組と商業科を含む男子高校として再編成された。
まあ元々同じ高校から分離したこともあって、文化祭等ではお互いに訪問し合ったりしていた
 私は社会科学研究部のクラブに入りユネスコの活動に参加したりした。ユネスコ高校生大会に顧問の品川即道先生に連れられて、長野、東京などを訪問して、国際交流や文化の交流に興味を持ち、東京に憧れを持つきっかけとなった。
 「最早戦後ではない」という掛け声と共に若者は「金の卵」とおだてられながら大都市を目指し始めた。その一人となって、東京なら早稲田大学に入りたいと憧れた。